お知らせ
人生を映画と共に、普通科17期生、映画監督 岡田有甲さんをインタビューしました。
2025年10月7日
岡田有甲監督を取材して
インタビュー&文:山口文子(普通科18期)

まだまだ酷暑厳しい8月の末、岡田有甲監督(17期)が、緑友会の事務所を訪れ、インタビューの取材を受けてくださいました。
今秋公開する映画「ヤマトタケル~白鳥伝説~」が完成したので、お話しを詳しくお聴き致しました。
大阪府羽曳野市生まれで、子供の頃からやんちゃで、学校から帰るとランドセルを放り投げて、遊びに出かける毎日でした。
ある日、教師であるお父様から、約束を守らなかったことを厳しく叱られたとき、何と持ち出された刀のキラリと光る輝きが怖さと共に忘れられなかったそうです。
また、アニメ映画が好きで、ある日ディズニー映画を観に連れ もらった時、最後のシーンの「行かないで!」と云う台詞と共にキラキラと何かが光ったのも、はっきりと今でも覚えておられます。
高校生活の頃は、バスケット部に入りクラブ活動に打ち込んでおられました。また、体育祭の魅力にも取り憑かれて、三年生の時には緑団の総団長を務められました。
そして2年間担任だった根本先生を大変慕い、先日念願の根本先生とお会いすることが叶い、とても喜んでおられます。
卒業後の浪人生活の時、ラジオから流れて来た今村昌平監督の「規制のレールに乗れない奴はうちに来い」
と云う一言で心が決まり、家を飛び出して横浜の今村監督が始めた映画の学校の1期生となりました。
そんなある日、横浜にやって来たお父様と中華街で食事をした時、映画界に入るのに大反対だったお母様を「俺がおふくろを説得する」と言いながら、老酒に入れたザラメがキラキラと光るのを忘れなかったそうです。
そして助監督時代は、過酷な体験を強いられました。監督のムチャブリはどんなことでも、従わなければなりませんでした。
高い建物から、放物線を描いて飛び降りたり、北国の極寒の雪の上に裸で横たわったりして、死にかけたことが何度もありました。
そんな御苦労の助監督時代を経て、松竹の撮影所に入り、主にドキュメンタリー映画や、ブイシネマの作品を創りました。
しかし、お父様の介護の為に弟さんの説得もあり、羽曳野に戻って来られたのです。
羽曳野に戻って、或るアクション映画を撮っていた時に、突然体調を崩し、ステージ4の食道癌の宣告を受けましたが、それに屈することなく映画製作へ邁進。
お父様を見送った後の監督は、落ち込みましたが、子どもの頃にテレビで見た「チロリン村」や「ひょっこりひょうたん島」の人形劇を思い起こし、人形劇の映画を子ども達の為に撮ろうと決意されました。
古市羽曳野古墳のある地に住み、また「古事記」のヤマトタケルが白鳥に姿を変えたと言われる土地で、ヤマトタケルしかないと考え、人形劇団クラルテさんに出演を依頼して、いろんな苦難を乗り越え、構想11年、制作期間2年余りをかけて、この度めでたく映画が、完成しました。
実写と人形劇を織り混ぜた、手づくりの温かさを尊び、愛と知恵と勇気を子ども達に届けたいと、CGやAIを愚直に拒み、アナログ一徹で白鳥の飛ぶシーンは、ペンライトで光らせて完結しました。
それは、監督が今まで生きて来られた人生の集大成がキラキラと輝いたのでしょう。
母校が生んだ素晴らしい岡田有甲監督が制作した「ヤマトタケル~白鳥伝説~」は、沢山の方々のご支援や協力で完成しました。
岡田監督の人生そのものである、キラキラと輝く「ヤマトタケル~白鳥伝説~」は、この秋もうすぐ上映されます。
岡田監督インタビュー動画をご覧いただけます

15分のロングインタビュー、小中、高校時代から今日までのインタビューに答えていただきました。
インタビュアーは普通科18期の緑友会広報委員 山口文子。「徹子の部屋」ならぬ「文子の部屋」をご覧ください。

岡田有甲監督作品。愛と知恵と勇輝をテーマにした人形劇映画は11月14日(金)あべのアポロシネマで公開上映予定です。
ご家族揃って是非ご覧ください。
予告編はここからどうぞ
インタビュー&文:山口文子(普通科18期)

まだまだ酷暑厳しい8月の末、岡田有甲監督(17期)が、緑友会の事務所を訪れ、インタビューの取材を受けてくださいました。
今秋公開する映画「ヤマトタケル~白鳥伝説~」が完成したので、お話しを詳しくお聴き致しました。
大阪府羽曳野市生まれで、子供の頃からやんちゃで、学校から帰るとランドセルを放り投げて、遊びに出かける毎日でした。
ある日、教師であるお父様から、約束を守らなかったことを厳しく叱られたとき、何と持ち出された刀のキラリと光る輝きが怖さと共に忘れられなかったそうです。
また、アニメ映画が好きで、ある日ディズニー映画を観に連れ もらった時、最後のシーンの「行かないで!」と云う台詞と共にキラキラと何かが光ったのも、はっきりと今でも覚えておられます。
高校生活の頃は、バスケット部に入りクラブ活動に打ち込んでおられました。また、体育祭の魅力にも取り憑かれて、三年生の時には緑団の総団長を務められました。
そして2年間担任だった根本先生を大変慕い、先日念願の根本先生とお会いすることが叶い、とても喜んでおられます。
卒業後の浪人生活の時、ラジオから流れて来た今村昌平監督の「規制のレールに乗れない奴はうちに来い」
と云う一言で心が決まり、家を飛び出して横浜の今村監督が始めた映画の学校の1期生となりました。
そんなある日、横浜にやって来たお父様と中華街で食事をした時、映画界に入るのに大反対だったお母様を「俺がおふくろを説得する」と言いながら、老酒に入れたザラメがキラキラと光るのを忘れなかったそうです。
そして助監督時代は、過酷な体験を強いられました。監督のムチャブリはどんなことでも、従わなければなりませんでした。
高い建物から、放物線を描いて飛び降りたり、北国の極寒の雪の上に裸で横たわったりして、死にかけたことが何度もありました。
そんな御苦労の助監督時代を経て、松竹の撮影所に入り、主にドキュメンタリー映画や、ブイシネマの作品を創りました。
しかし、お父様の介護の為に弟さんの説得もあり、羽曳野に戻って来られたのです。
羽曳野に戻って、或るアクション映画を撮っていた時に、突然体調を崩し、ステージ4の食道癌の宣告を受けましたが、それに屈することなく映画製作へ邁進。
お父様を見送った後の監督は、落ち込みましたが、子どもの頃にテレビで見た「チロリン村」や「ひょっこりひょうたん島」の人形劇を思い起こし、人形劇の映画を子ども達の為に撮ろうと決意されました。
古市羽曳野古墳のある地に住み、また「古事記」のヤマトタケルが白鳥に姿を変えたと言われる土地で、ヤマトタケルしかないと考え、人形劇団クラルテさんに出演を依頼して、いろんな苦難を乗り越え、構想11年、制作期間2年余りをかけて、この度めでたく映画が、完成しました。
実写と人形劇を織り混ぜた、手づくりの温かさを尊び、愛と知恵と勇気を子ども達に届けたいと、CGやAIを愚直に拒み、アナログ一徹で白鳥の飛ぶシーンは、ペンライトで光らせて完結しました。
それは、監督が今まで生きて来られた人生の集大成がキラキラと輝いたのでしょう。
母校が生んだ素晴らしい岡田有甲監督が制作した「ヤマトタケル~白鳥伝説~」は、沢山の方々のご支援や協力で完成しました。
岡田監督の人生そのものである、キラキラと輝く「ヤマトタケル~白鳥伝説~」は、この秋もうすぐ上映されます。
岡田監督インタビュー動画をご覧いただけます

15分のロングインタビュー、小中、高校時代から今日までのインタビューに答えていただきました。
インタビュアーは普通科18期の緑友会広報委員 山口文子。「徹子の部屋」ならぬ「文子の部屋」をご覧ください。

岡田有甲監督作品。愛と知恵と勇輝をテーマにした人形劇映画は11月14日(金)あべのアポロシネマで公開上映予定です。
ご家族揃って是非ご覧ください。
予告編はここからどうぞ