会長だより ⑳ 「思い出」支援 ―― 平均75歳の霧ヶ峰再訪に寄せて

(2023年10月13日)

「思い出」支援 ―― 平均75歳の霧ヶ峰再訪に寄せて

緑友会長 川本正人(21期)

「モノより思い出。」というミニバンのキャッチコピーが出たのは1999年。バブル崩壊後の「失われた10年」真っただ中でした。あれから四半世紀。人生で一番やらなければならないことは「思い出の積み重ね」だと、年齢を重ねてますます思うようになっています。最期に幸福感をもたらすのは思い出です。それに思い出は「経験」とも言えます。打席に立つことで選球眼が磨かれるように、経験を積むほど人生を切り開く力は強まるはず。お金やモノと違い、失われることもありません。

学校時代の思い出に挙がる修学旅行。けれど東住吉高校では、創立以来30年近く、「霧ヶ峰キャンプ」が〝旅行〟の代わりでした。夏休み中の4泊5日、標高1600㍍の高原で学年丸ごと自活する全国でもまれな行事。寝場所は昔ながらの三角テント。周りにスコップで排水溝を掘り、水平とは言い難いデコボコの地面にロープとペグで設営しました。食事は飯ごう飯やカレー。まきが燃料です。飯ごうの火加減は「はじめちょろちょろ中ぱっぱ」。炊け具合は、小枝をふたに押し当てて感じるコトコトという響きと、お焦げのかすかな匂いで計りました。

多少の風雨ならそれもキャンプ。日中は登山や湿原散策、夜はキャンプファイヤー、そして星空……。太古の昔から、人類はほとんどの歳月をこのキャンプのように生きてきました。宇宙の悠久さ、自然の雄大さ、仲間たちとの一体感を全身に感じて過ごした昼夜は、「自分は小さい」と知る謙虚さと、「食べて眠れば生きていける」というしぶとい生き物感覚を呼び覚ましてくれたと思います。

車山山頂から望む八ヶ岳(正面)。右奥に富士山も浮かぶ(2023年10月、吉川憲司さん撮影)車山山頂から望む八ヶ岳。右奥に富士山も浮かぶ(2023年10月、吉川憲司さん撮影)

その霧ヶ峰を、先日、緑友会の役員ら3人を含む男女5人が2泊3日で訪れました。5期生3人(79~80歳)と16期生、18期生の混成チームで、平均75歳。この夏、同期生との食事会や緑友会の活動でそれぞれ霧ヶ峰が話題になり、互いのメンバーが結びついて「行ってみよう」となったそうです。最初は高校時代同様、大型バスを仕立てての再現旅行を計画しましたが、途中でハタと高齢に思い至り、安全優先で少人数に変更。母校の体育教師15年目の吉川憲司さん(68)(緑友会会計)運転のミニバンで7時間かけて現地入りし、メンバーの一人が63年間保存していたガリ版刷りの「しおり」を参考に行程を組みました。ホンマお元気や。

とはいえ、持病のある人は医師の許可を得ての参加。体調に配慮して一部の行程をホテルで過ごす人もありました。それでも一行は、高原の最高峰・車山(1925㍍)にリフトで上がり、日本アルプスの全景を望む360度の大パノラマを堪能。遠くの富士山にかかっていた雲も、「どっか行って!」「はよ行って!」の大阪弁に気おされたのか、やがてすっきり晴れてくれました。

メンバーの中には、高校当時、霧ヶ峰キャンプに行けなかった女性もいました。健康上の理由でした。彼女は今回、眠る同期生を部屋に残し、夜中に一人、ホテルを出たり入ったり。あの日見られなかった星空を、何とか一目と思われたそうです。長い間、ぽっかりぽっかり欠けたままだった思い出のピース。高原の夜風や流れ星は、ちゃんと届けてくれたでしょうか。

旅の楽しみは、計画段階、最中、行った後のそれぞれにあります。特に「行った後」の思い出は、いつでも何度でも楽しめる宝物です。

これは高校生活も同じだと思います。「卒業後」に残る青春の思い出が、たとえそれが苦いものであっても、決して無駄にならないことを、生きる力になることを、先ほどのメンバーたちが示してくださっています。

緑友会は、同窓会活動とともに「母校支援」を活動の柱にしています。後輩たちにさまざまな思い出を積み重ねてほしいからです。ご支援を募っている「(仮称)緑友ホールプロジェクト」もその一つ。いまだに空調機がなく、昼食時以外は施錠されている薄暗い学校食堂を「にぎわい空間」に改修する計画です。

完成目標は創立70周年の来年夏。生徒たちが明るく楽しく積極的にすごせる環境を少しでも整え、それがご支援くださった卒業生たちの思い出にもなればいいな、と思っています。