会長だより ㉞ 「経験の弟子」たちへ

(2024年11月16日=記念式典を終えて)

「経験の弟子」たちへ

緑友会長 川本正人(普通科21期)

16日に行われた母校創立70周年の記念式典・公演・ホールお披露目会。在校生はもちろん、関東からのお運びを含め卒業生ら約100人も一緒に祝ってくださいました。本当にありがとうございました。
70周年式典
以下は、70周年記念事業実行委員長として私が式典で述べたごあいさつです。母校や卒業生への誇り、在校生へのエールを10分間でどこまでお伝えできたか疑問ですが、再録してことほぎとお礼の言葉とさせていただきます。

◇ ◇ ◇

お集まりいただき、ありがとうございます。普通科21期生で同窓会長の川本です。今の校歌、1番だけは50年前からくちずさんでいます。
会長

さて、70周年を記念し、同窓会、後援会、PTAで食堂を「みどりホール」に改修しました。単に「きれいな食堂」にしたのではありません。様々な体験ができる空間として整備しました。
今日はその「体験」についてお話しします。

ホールのこけら落としは9月の文化祭。生徒の皆さんがいろいろな催しを繰り広げてくれました。最初に行われたのは漫才コンテスト「ヒガスミM1グランプリ」。約200人でいっぱいの会場が爆笑で揺れました(下の写真)。

漫才グランプリ

その中にいた私は、登場した3組の生徒について、3つのことで感動しました。
1つは、芸のレベルの高さ。泣かせるより難しい笑いをあれだけ取れるのはスゴい。
2つ目は、彼らの進化の鮮やかさ。私はたまたま前日にリハーサルも観ていました。その時は1組の完成度が図抜けていて、あとの2組は少々荒削りな印象。ところが一夜明けると3組とも格段にレベルアップし、しかも横一線。結局、荒削りだった1組の優勝でした。
彼らに聴くと、リハのあと演技の時間を1分余り延ばし、ネタを2つ新しく入れて、夜中12時まで公園で練習したといいます。この修正力、集中力はアッパレです。

3つ目。それは登場した3組全員が3年生だったことです。受験生がこの時期にこん身の漫才をやっている。審査員から「オチは決まった。大学は大丈夫」と激励が飛ぶ。こうした光景に私は、「これが東住吉高校や」とうれしくなりました。
いつも何かにのめり込んでいる。それが開校以来の伝統だからです。

私たちの頃は、体育祭も秋でした。また、やたらと体を使う学校で、山の高原で何日もキャンプをするのが修学旅行代わり。長居公園5周15㌔のマラソン大会も長く伝統行事でした。「二兎を追え」は15年前からの第2校訓ですが、当時の言い方では「勉強だけなら誰でもできる」。おかげで全国大会に出る運動部や、後にオリンピック選手になる人もいました。

では勉強はどうだったのか。例として国公立大学の合格者数を同窓会報から拾ってみました。ちなみに昨年度は現役15人、浪人11人の26人。
では10期生の時は……現役25人、浪人27人の計52人。30期生では計90人。70年周年の真ん中35期生では計79人。阪大にはほぼ毎年、京大にもぼつぼつ合格していました。
もちろん今と単純比較はできませんが、子どもの数がずっと多く、当時も簡単に入れるわけではありませんでした。

ではなぜ年中走り回っていながら進学でも一定の成果が出たのか。それは本校が、人間のあらゆる可能性を育む「全人教育」を行っていたからだと、私は考えています。
全ての生徒に、年間を通じて様々な体験の機会を用意する。生徒たちがそれらに自由にのめり込む。こうした環境が、M1の生徒が見せたような自主性、集中力、突破力、コミュニケーション能力、人の気持ちがわかる共感力、そしてギリギリのところで耐え抜く体力や精神力などを様々養い、様々な成果に表われたのではないか。

これからの時代、不透明さが増しそうです。AIの裏をかかなければならない場面もあるかもしれません。しかし様々な体験を通して地力・地頭を養った人間なら、どんな事態にも対応できる、そう思うのです。

500年前、レオナルド・ダ・ヴィンチという人がいました。画家として知られますが、彼が極めた分野は、天文、物理、建築土木など数十に及びます。
例えば彼の代表作で、聖書に題材を取った「最後の晩餐」という大壁画。そこでは最先端数学だった遠近法が駆使されています。また題材にはキリスト教の造詣が要ります。十数人の人物の心の内をポーズや表情で描き分けるために、解剖学や心理学の要素も加わっています。

「絵」だけ勉強しても、あの作品は描けないのです。

彼は、イタリアの片田舎・ヴィンチ村で、父親のいない私生児として生まれました。ヴィンチ村の、ただのレオナルド。まともな教育も受けていません。それがどのようにして「万能の天才」になったのか。

彼は膨大なノートを残しており、一部は岩波文庫に入っています。それをひもとくと、答えは割と前の方にありました。
彼は自分のことを、「経験の弟子レオナルド」、そう呼んでいるのです。
ノートを読むと、彼はとにかく観察し、触り、実験し、デッサンし、文章に落とし込んで考え抜く、そんなことを営々と繰り返しています。
五感の全てで対象にのめり込む。その体験が彼の経験方法なのだと、私は理解しました。

ひるがえって本校。今も昔も様々な経験の場が用意されています。皆さんも私たちも、その弟子です。
コロナでマラソン大会や合唱コンクールは中断しました。しかし一方で卒業公演やチャリティーマラソンなどなど、困難を乗り越えて定着した催しもあります。
みどりホールができ、M1も新たな恒例になるかもしれません。
国際交流も格段に充実しました。本日も台湾の姉妹校からわざわざ8人がここにご登壇です。
「歓迎来到(フアン・イン・ライ・ダオ=ようこそ)東住吉!」
台湾語

70周年の時の流れをどこで輪切りにしても、一生懸命な経験の弟子たちが詰まっています。その最先端にいるのが皆さんです。現在は過去の積み重ねの上にあり、未来はその先に広がっています。

生徒の皆さんは今、学校が楽しいですか? 好きですか?
ご来場の卒業生の皆さんはいかがでしたか?(歓声、拍手)
学校が楽しくて、好きで、一生懸命。そんな若者が集う限り、本校は不滅です。

30年後、皆さんは働き盛りの40代、私もまだ95歳です。
これからもたくさんの体験を重ね、100周年でまたお会いしましょう。
ありがとうございました。

2024年11月、チャリティーマラソン開催<緑友会報告>

11月9日(土)雲ひとつない快晴の下、チャリティ100kmリレーマラソンが開催されました。
緑友会は例年参加者支援のためエイドステ-ションを運営していて、その日を文化祭とともにホームカミングデイと位置付け、OB・OGの参加を呼び掛けてきました。
<マラソン、スタートの様子:動画>

100Kマラソン

今年は、いなりずしと豚汁を提供しました。準備に協力いただいたみなさんには朝早くから参加いただき、いなりの小分け作業や豚汁づくりに携わっていただきました。
食材についてはチャリティマラソン参加者+関係者を考慮して560人分として発注しました(ただし、豚汁については水が多かったのか、結果700杯分(お代わり含む)の提供となりました)。
昨年の経験をふまえ、豚汁の具材となる野菜は前日に下準備をして、鍋ごと具材別に分けて袋詰めして持ち込みました。
肉といなりは当日スーパーに予約したものを緑友会事務局で手分けして搬入してもらいました。
いなりについては、2 個ずつのパック詰め直し作業に3人かかりで取り組んでいただきました。
豚汁については3つの鍋で平行して炊き始めました。
<動画はこちら>

鍋3

当日は、このチャリティ100kmリレーマラソンのほか、中学生向けの学校説明会、学校の取り組みを検討する学校協議会が行われるなど盛りだくさんのスケジュールで、校長先生がスタートラインに着いたのが予定時間の1分前という忙しさでした。

川本会長の話では、チャリティ100kmリレーマラソンは当初から担当されていた先生が今年で退任されるそうで、来年からの開催や支援はどうなるのかと思っていたところ、その先生に若い先生お二人を紹介され、その方々から「私たちが受け継ぎます。引き続きご支援ください」とごあいさつをいただいたそうです。

チャリティマラソンがはじまると、それぞれ走り終えた現役生がやってきました。生徒の取次の整理は吉川先生にお願いしました。ゴマ油のとショウガの香りが効いた豚汁は、生徒には好評でした。

次々

消費ペースが思いのほか進まず、豚汁の鍋は2廻りが精いっぱいでした。そのため、最後の2鍋は残りの具材を全部投入したため、超特盛鍋になってしましましたが、参加者配布後の「おかわりタイム」には50人以上の列ができ、ネギ1つ、汁の一滴まで残さず平らげてくれました(高校生の食欲恐るべし)。

今回はスタッフ以外に、21期生が5人来ていただき、うち1人は調理師免許をお持ちでした。
昨年のキッチンカー21期生もそうでしたが、この資格のある人がいると、保健所対策の負担がゼロになります。
来年度のご参加も川本会長からお願いして了解をいただいたようです。

皆様のご協力のもと、無事に終わらせていただき感謝いたします。

最後の最後までおかわりを待つ列が続きましたこと、そして「美味しかった❗️ごちそうさま❗️」と顔をほころばせる様子にこちらも嬉しい気持ちでいっぱいになりました。
学校、生徒とともにこの様に交流が持てます機会がこれからも続き、支援の輪が広がりますことを願っています。

フェイスブックにリアルタイムで投稿して、拡散もしていたようで、支援の輪が広がるように広報活動にも力を入れてまいります。

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Facebookのコメントを引用

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富田先生からのコメントでは、生徒さんたちはランチをとても楽しみにしていたそうです。

お世辞でもチャリティーマラソンが毎年大成功しているのは緑友会のおかげと言われるとうれしいですね。

スタッフ

会長だより ㉝ 不易流行の支援

(2024年9月24日)

不易流行の支援

緑友会長 川本正人(普通科21期)

(※不易流行=変わらないものを残しながら、変化を取り入れること)

母校の支援団体は3つ。PTA、みどり会(元PTA役員らによる後援組織)、緑友会です。いずれも開校間もなくから活動してきました。けれど、PTAはコロナ禍による活動制約がまだ尾を引いている様子。みどり会もあおりでOB・OG不足に陥り、今年度から活動を休止しました。

創立70周年記念事業実行委員会は、この3団体と学校で組織されています。といっても実際に集まるのは学校と緑友会だけ。2大事業の「食堂の多目的ホール化」は緑友会、「記念式典・記念公演」は学校という役割分担です。差し出がましくて落ち着かないのですが、全国で広がるPTA離れを考えると、緑友会が前面で対応する場面は増えそうに思います。

24日、その実行委の第6回会議が開かれました。これからは11月16日(土)の「式典・公演」に向かいます。そこで今回は、一段落した「ホール」について、これまで触れていなかった点をご報告します。

<命名>

みどり会は活動休止に当たり、蓄えのほぼ全額750万円を実行委に寄付されました。食堂改修はこのご決断なしには不可能でした。「みどりホール」は、同会の事実上最後の、そして最大のご支援だったのです。

みどり会の今後を話し合った昨年4月の同会役員会。お招きいただいた私は、創立以来の大事な方々にお約束しました。「歴史とご功績のある会のお名前をどこかに残したい。私案ですが、みなさまのご協力で完成がかなったら、『みどりホール』の命名を関係団体にお示しします」

その後、各団体ともこの命名に賛同してくださいました。同会の母校支援事業も、昨年度から緑友会が引き継いでいます。

<工費>

資金と時間に最後まで追われた工事でした。お金がなくて発注をためらっていた銘板を緑友会館の門柱に取り付けたのはこけら落としの前日、9月6日の午後。デザインを緑友会スタッフに頼んで費用を抑え、堂々とした真ちゅう製にしました。

工事一式の費用は計1877万9300円。予算の1650万円を227万9300円、14%超過しました。相次いで見つかった老朽危険個所の修理、脚部再塗装だけの予定だった丸イスの座面交換が主な理由です。

このため緑友会から実行委への寄付を、当初の500万円から730万円に増額。役員9人から異論は出ませんでした。

これにより周年事業全体の予算は、PTAから500万円、みどり会から750万円、卒業生からの寄付1万円と合わせ、1981万円になっています。

<梁の亀裂>(だより㉘「『安全第一』の覚悟」参照)

ホール中央の梁で7月の着工早々に見つかった「構造クラック」。その対応を8月29日に府教委と直接話し合いました。台風が近づく中お越しになった担当3人は「当時の図面もなく、危険性の判断は困難」「耐震対策はどれだけやっても『それで安全』とは言えない」と率直でした。

こちらからは「ご判断が難しいなら、改修工事を監理した一級建築士らの『大地震が来たら危険』という指摘を信じるしかない」「耐震対策に限りはないが、『だから何もしない』ではなく、『どこまでできるか』をご検討いただきたい」と訴えました。

50分後、先方がおっしゃいました。「対策案を示してもらえれば、こちらも検討しやすい」

発見当初の「補強したいならやっていただいてもいい」という回答からは大前進。ここまでくれば、あとのやり取りは学校にお任せです。緑友会は対策案の支援に回り、24日の実行委では梁を柱で支える補強図面をお示ししました。

<運用>

構想実現に動くに際し、昨年3月、学校側と大枠で合意しました。「緑友会やPTAの活動にも活用する。ただし禁酒・禁煙」「ランニングコストは学校が負担」といった内容です。

ホール完成後、生徒たちや緑友会員から「どうやったら使えるの?」という問い合わせが早速ありました。学校がルールを設定されることになっています。

……こう書き連ねると、なんだか緑友会だけ安泰なように見えます。けれど内情は火の車。固定収入は新卒時の入会金だけ(昨年度は132万5000円)。対する支出は、会報の印刷・発送だけでも240万円(次の課題です)。ご寄付がなければとっくに財政破綻しています。

ありがたいことに、この2か年度のご寄付は、1587の個人・団体から2207件、996万円余り。一昨年度の3倍以上のペースです。名簿電子化によるコンビニ決済とホームページの改修でご支援のすそ野も広がりました。

せやけど周年事業に730万円も投じたら……。まあ、しんどいでしょうが、どうにかなります。みなさまから息の長いご支援をいただけるよう、スタッフ一同、あらためて奮闘努力するばかりです。

一昨日、私の21期のミニ同期会があり、30人が集いました。実現に懐疑的なムードが漂っていたホール構想を、当初から応援してくれた人たちです(1年前のだより⑲でご紹介)。ようやく訪れたお礼の機会に、私はごあいさつをしました。

「この歳になると、『いいもの』を残す責任を感じます。これだけ大勢の同期が2年続けて集まるのは、50年近く前のあの時間・空間が、やっぱり『いいもの』だったからだと思うのです。この絆とそれを育んでくれた母校は誰かが守らないと、いけない」

気負いすぎかもしれません。独りよがりにも聞こえます。けれど本心です。

緑友会はこれからもホールを活用していきます。自分の来し方をふと確かめたくなったらお立ち寄りください。「あの日々」が、ひょっとしたらこれからの人生を照らす一灯になるかもしれませんから。

※「記念式典・記念公演」のご案内は、ホームページのバナーから。

会長だより ㉜ 続・祝祭の人模様

(2024年9月10日)

続・祝祭の人模様

緑友会長 川本正人(普通科21期)

みなさまのご支援で完成した創立70周年記念の「みどりホール」。そのこけら落としから3日が過ぎました。あの日、同じ時間と空間をすごし、それぞれに母校への思いを深めておられた方々を、改めて振り返っています。

生徒たちの公演とともに、緑友会は、卒業生らとの交流の集い「ホームカミングデイ」を催しました。「街角ピアノ」「飛び込みライブ」「限定ホールランチの提供」「ヒガスミ応援ハンディータオルの販売」が主な取り組みです。

前回の「だより」は、公演する生徒たちにスポットを当てました。今回は訪れた卒業生について、いくつか書き残します。

 

「街角ピアノ」でエールを送った普通科18期生、内本由美子さん

この日はホールを半分に分けてありました。入って右手は公演会場、左手は食堂とミニ舞台。後者には小さめの電子ピアノを置き、誰でも使えるようにしていました。

「弾いてもいいですか」。ミニ舞台の真ん前でホールランチを召し上がっていた女性が声をかけてこられました。内本さんでした。「芸能文化科もあって上手な方が多いでしょうに、出しゃばりでは?」という思いが少しあったそうですが、弾き始めるといつものように心身とも「異次元」入り。

1曲目は中島みゆきの「ひまわり〝SUNWARD〟」。激動の時代を生きる人々へのエールです。2曲目はパッヘルベルの「カノン」。日常を離れ、母校で校舎を眺めたり、旧友との再会を喜んだりする光景をイメージした選曲でした。

病院や施設の子どもたち、お年寄りたちに寄り添おうと、訪問演奏を続けて20年近く。コロナで施設に入れなくなった間も、京都駅ビルの街角ピアノを朝から奏で、不登校の中高生らを慰めていたといいます。

その時、その場所で伝えたい思いが、いつもありました。

「ひまわり」の途中でふと目を上げると、若い女性が小さく拍手をしていました。「応援、届いたみたい」、そう感じた瞬間でした。

街角ピアノ

 

こけら落とし最初の演奏者となった26期生、長谷川喜也さん

スピーカー、ミキサー、イコライザーなどを寄贈してくださった25期生、高山愛二さんの高校時代のフォークサークル仲間です。「飛び入りライブ」OKと聞いてギター持参で早々に来場されました。

生徒たちの公演まで約1時間。見るとマイクがまだ未セットです。会社員の傍ら、週末にライブカフェで音響を手伝っているだけに放ってはおけません。「ちょっと触ったことあるから」と、前回のだよりで紹介した3年生ビートボクサーらとセッティングに乗り出しました。

奥行きの狭い舞台に合うようマイクスタンドの位置や高さを工夫。前日のリハで聞こえなかったリードギターの音をボーカルマイクで拾えるよう改善。ハウリングを避けるためスピーカーはやや外向きに。機器への音の「出」と「入り」のバランスも調整……。

これまでは「音響機器がなかったらどうなっていたことか」と、ハード面のご寄贈だけを喜んでいた私ですが、この日は「この人が来ていなかったら」と、ソフト面の助太刀にも大感謝。ここは本当に人に恵まれたホールです。

長谷川さんは、マイクテストを兼ねてそのまま「飛び入りライブ」。1曲目はシンガーソングライターあいみょんの「双葉」。別れや成長、未来への希望を高校世代に向けて歌った作品です。2曲目はバラエティー番組「探偵!ナイトスクープ」のテーマ「ハートスランプ二人ぼっち」。選曲理由は「昨夜、放送してたから」。レパートリーはなかなか広そうです。

ところで今日は何曲ご用意?「せやねえ、30から40かな」。この人、心底本気でやらはるつもりやったんや!

2曲では足りなかったのでしょうか。長谷川さんは食堂エリアのミニ舞台わきに移ると、今度は緑友会スタッフの三線(さんしん)を手に、なんと校歌を演奏。「この曲、初めて弾いた」なんて、うそでしょ? 味わい深く風情のある音色に、食事客らも拍手でした。

長谷川さん

 

ホール関係はすべて真っ先に参加の11期生、寺崎信さん

「公演とランチの集い」の告知が緑友会ホームページにアップされた直後、ホールランチを一番乗りで予約。こけら落としにも開場直後にお越しになりました。「LINEで同期を誘ったのですが、みな70代半ばですし、住む所も離れてしまって。私は大阪市内なんで、まだ自転車でも来られそうなんですが」と一人かくしゃく。

そういえば11期会のみなさん、支援を募り始めた昨年6月の会報発行直後にご厚志をお寄せくださいましたね。「卒業40周年から何度か同期会を開いてきましたが、コロナで中断。手作りの催しは年齢的にも難しくなりまして、昨年、会議を開いて会の解散を決めました。会則も作ってありましてね、解散時は(余剰金を)緑友会に寄付すると決めていたんです」

高校時代は理化学研究部。気象予報士などいない時代。気象を担当し、文化祭では天気図などを展示しました。校内を巡ると、今は展示より模擬店。それはそれで生徒たちを応援しなければと、ベビーカステラの店で2000円を渡し、「手が空いたらホールに」と、緑友会への差し入れを手配。間もなく数個ずつ入った紙コップが20ほど2回に分けて届けられ、スタッフを感激させました。

寺崎さんは、生徒たちの公演を最後まで見届けてホールを出られました。「一生懸命なら何事も無駄になりません。若いときは何をやりたいのかわからないかもしれないが、道は一つじゃないですから」。夏嵐のような生徒たちと過ごしたあとの言葉でした。

 

母校出身の著名人でサイン帳をいっぱいにしたい普通科31期生、萩原泰之さん(緑友会書記)

緑友会ホームページのトップに据えてある「祝70周年 繁昌亭からのメッセージ」。ページ初の動画です。登場4人のうち、芸能文化科12期生(普通科では50期)の桂團治郎さんと同科22期生(同60期)の笑福亭呂翔さんにホールでお会いしました。3月に動画出演をお願いした際もそうでしたが、実に気さく。「ええのできましたねえ」とホールを見渡し、大勢の一般客に混じってホールランチを召し上がってくださいました。

萩原さんは、あの動画をタブレットで撮影した人です。当時はどちらも真剣で余裕がありませんでしたが、この日はお互いにくつろいだ雰囲気。食事中の二人にその節のお礼を申し上げつつ差し出したのは、大判のサイン帳。以前から著名卒業生で埋めようと用意し、この日も持参していました。サインはもちろん、千社札シールまで張ってもらってご満悦です。

見せてもらうと、あて名はどちらも「はぎはらさん江」。ン?役員やったら「緑友会さん江」としてもらわなアカンのとちゃうん? 「あっ、次は色紙用意してちゃんともらうようにします」

けれど、「サイン帳いっぱいの著名卒業生」という彼の言葉にはひかれました。ホールは人財のインキュベーター(支援施設)。80枚つづりのサイン帳には今3人。全ページ埋まる日が楽しみになりました。

サイン

 

会長だより ㉛ 祝祭の人模様

(2024年9月7日=「みどりホール」こけら落とし)

祝祭の人模様

緑友会長 川本正人(普通科21期)

言葉が浮かばないもどかしさをいつも以上に感じています。文化祭に合わせた7日の「みどりホール」こけら落とし。その模様と事業ご支援への感謝をどうやってお伝えするか。どうも「自分の言葉」では難しいようです。

催しは、生徒たちによる5つの公演(足かけ4時間)と、緑友会が企画したホームカミングデイ(卒業生らの交流イベント)で構成。一時は約200人が縦12㍍、横18㍍の空間を埋め、ホールはさながらライブハウス。築62年で初めて備えた空調機が威力を発揮しました。

まず開演直後の写真をご覧ください。公演者らはここで何を感じ、どう臨んだか。このあと生徒たちの「言葉」で公演順にお伝えします。

 

漫才頂上決戦「ヒガスミM-1グランプリ」(出場3組)の司会、3年西川瑠奈さん

「ウワァーッて、メッチャすごい歓声がブワッときた。『楽しく笑ってくれたら』とは思っていたけど、想像以上のライブ感でした」

(一言)漫画「DEATH NOTEに登場するアイドルの衣装。どのネタにも一番よく笑っていました。

 

優勝した「マツアンドヤマ」の3年松岡啓太さん、山地祥生さん

「気持ちよかったぁ。受けすぎて続きのセリフを出すのに戸惑った」「前日のリハーサルよりネタを2つ増やして、昨夜は公園で12時まで練習」「修学旅行(前年、石垣島)の時に初めてやった漫才は受けなかった。リベンジ成功」「これからは受験勉強。優勝を弾みに国立大を狙います」

(一言)リハでは練習の差が見られましたが、3組ともたった一日で急成長。会場をうならせるハイレベルの接戦になりました。この集中力にも拍手です。

 

審査員(校長、教員、卒業生、在校生の5人)

「出場者全員が3年生。この時期に受験よりネタが命?」「ネタは落ちた。大学は受かります」「校長ネタ、全力でイジってください」「先生も面白い話ができるように頑張らんと」

(一言)審査員のコメントにも爆笑。さすがです。

 

マジックの3年小屋畑遼(こやはた・はる)さん

(先に一言)前日のリハでは「長い風船を飲み込むとき、オオッ!とどよめきがわいたら成功」と話していましたが、当日は風船ナシ。はて?

「風船、割れちゃったんです。夕べの練習で。今日は最初のハンカチ伸ばしもミス。修学旅行で初めてマジックをやったときは受けたんですけど、今日は……」

(一言)登壇前は声もかけづらいほど緊張気味でしたが、本番は黒サングラスをかけて堂々。合間にポーズを決め、余った時間にハンカチやペットボトルを使った同じネタを繰り返して失敗を穴埋め。タフな一面を見せてくれました。

 

アコースティックギターの1年宮城虎侍(とらじ)さん、中川唱平さん

(汗だくのギターボーカル宮城さん)「頭がパニック。歌詞は飛ぶし声も出ない。知らん人がおるとこんなに緊張するんや。こいつ(リードギターの中川さん)は天才やのに、申し訳ない。絶対リベンジや。けど緊張するから、今度はもうちょっとこぢんまりと」、(落ち着いた中川さんが肩を組んで)「そんなことないって。よかったよ」

(一言)軽音仲間で、初舞台のこの日はビートルズや尾崎豊など和洋6曲。始まる前は「失敗もライブ。楽しければ成功」と豪快だった宮城さん。リズムを刻んでいた上履きのサンダル、昔より上等になりましたが、卒業生には懐かしかったです。

 

口を使って音楽を創り出すビートボクサー、3年林奏芽(かなめ)さん

「文化祭は、部とかクラスとかでないと参加できないでしょ。個人や有志では難しい。だからこんな舞台を作ってくださって、本当にありがとうございます。来てくれた人に跳んで叫んでもらいたかったけど、今日はそこまで行かなかったなあ」

(一言)聴衆は演奏がスゴすぎて動けなかったのだと思います。なんせ「ドゥオーン」という重低音に打楽器が重なって、さらに管楽器まで加わるのです。ホンマに一人の口? ホンマにボクサー3年目? 私には衝撃でした。

(もう一言)彼は出演全組の「音」も担当してくれました。普通科25期の高山愛二さんからミキサーやイコライザーを寄贈されたのですが、扱える人がいません。そこで3日前、仕事中の高山さんに来てもらい、説明を受けたのが彼。その日のリハの際、音圧に耐えるダイナミックマイクを持参していたので、音作りに詳しいのだろうと思ったのですが、実は機器を触ったことがなかったとか。動じず、柔軟で、責任感の強い人柄を感じました。

 

来場親子の年齢を考えて平成を意識したアニメソングを2曲、アンコールで「め組のひと」を演奏した吹奏楽部の部長、2年内山瑠華さん

「体育館でも演奏したんですが、こっちの方がいいなと思います。部員8人で体育館は広すぎるし、みんなに見られる正式行事の感じだし。ここはご飯食べている人までいて、くつろいだ気分。体育館では出なかった『アンコール』の声も上がって、楽しく、うれしく演奏できました」

(一言)来場者によると、たしかに体育館よりホールでの演奏の方が良かったそう。吹奏楽部は毎年、OB・OG(=緑友会員)と定期演奏会を開いており、みどりホールを使うことも検討中です。

 

公演に浸りながら、考えたことがあります。「わからないから興味がない」に流れがちな自分への反省もその一つ。「わからないけど、なんかすごい」、そう受け止める感性が、考えを深め、知性を高めることは確かです。両者の違いは、その時間や空間を体感したかどうかで生じることを、「なんかすごい」後輩たちに教わりました。

私たちの母校の強みは、こうした「体感」の機会を伝統にしていることです。

みどりホールは「きれいな食堂」ではありません。「多目的なにぎわい空間」へと改修しました。型破りな行事がやりにくい時代にあって、「体感の伝統」を守る新たな砦になる、そう確信した催し第一弾でした。

※ ご支援者へのお礼とご報告は、改めて掲載させていただきます。

会長だより ㉚ 自主独立

(2024年8月24日=みどりホール完成)

自主独立

緑友会長 川本正人(普通科21期)

皆さんはどう感じられたでしょう。入学して「自主独立」の校訓を知ったときです。私は「立派な〝お題目〟やなあ」と思いました。これが指針だと言われても、何をどうすればいいのかピンとこなかったからです。

けれど今はわかります。自主独立とは、他を頼らず自分の力で事を成すこと。私たちの母校は、様々な体験を通し、それができる人間をつくる場所だったのです。

今日、食堂を一新した「みどりホール」が完成しました。行政に頼らずに生まれた、母校の新たな体験の場です。この1年5か月の間、緑友会にコツコツと浄財を寄せて下さった卒業生や元教員らは、1542人と8団体。このホールは、そのおひとりお一人の「自主独立」の結実です。


写真左:「みどりホール」に掲げる校訓の書 右:高山愛二さん(25期)が音響機器を寄贈 (いずれも24日搬入)

現役当時の母校は、本当に体を動かすことばかりでした。半径2㌔以内の徒歩通学、長居公園周回15㌔マラソン、修学旅行代わりの霧ヶ峰キャンプ……。「勉強だけならアホでもできる」と発破をかける先生も真剣で、「そりゃ絶対違うやろ」と突っ込むスキもありません。

一方、部活や勉強はほとんど生徒任せ。私の場合、死ぬほど練習して臨んだ3年生夏の公式戦を最後にハンドボール部を引退。ようやく受験を意識し、暑い日中に寝だめして徹夜で机に向かう昼夜逆転・成績大逆転の奇策を敢行、当然ながら失敗し、夏休みが終わると頭は真っ白、顔は真っ青。やっぱりアホに勉強はできません。

さらに当時は、9月からが文化祭と体育祭の季節。怒とうの数週間が終わるとしばらくフヌケ、気がつくと歳末。それでも例えばハンドボール部のメンバーは、大阪府立大などの国公立をはじめ志望校に次々合格。みんな、ホンマのアホとちゃうかったんや。

振り返ってみると、「成績よりも人間をつくれ」という母校の意思を感じます。社会に出ると、学生レベルの知識では太刀打ちできない場面の連続。正解のない課題もたくさんあります。そんなとき試されるのは、にわか専門家になる集中力、選択肢を一つずつつぶしていく粘り強さ、ここぞというときの瞬発力や突破力です。これらは、やたらと体を動かし、行事や部活にのめり込み、多様な仲間にもまれて育つものだと私は思います。

福沢諭吉の「学問のすすめ」といえば「天は人の上に人を造らず」ですが、もう一つ、彼のメインテーマである言葉が記されています。「一身独立して一国独立す」です。ひとり一人が自分の力で立てるようになれば、周囲を立ち上がらせることもでき、国も強く豊かになれる。独立の気概のない人間は、周囲を思う気持ちも浅く、人に頼り、へつらうようになる。そう説いています。

今、「みどりホール」にご支援を寄せて下さった方々を、存じ上げている限り思い起こしています。決して斜に構えず、こびることをよしとせず、ちょっととがっていて、損だとわかっていても簡単には折れず、したがって世渡りはうまくなく、それでも黙々と働いて、ときに誰かのために血潮を熱くする……、そんな像が結ばれます。

ご支援を形にしていった緑友会のスタッフも同様です。一級建築士、企画制作マン、フィナンシャルプランナー、元&現教員、地域ボランティア、会社員、公務員、元銀行員、パート従業員、主婦……。社会や家庭で責任を果たしつつ、同窓というだけのご縁で時間と労力を割く人たち。

皆さん、「自主独立」の気概にあふれています。

諭吉の言葉にある「国」を「母校」に置き換えるとどうでしょう。「一身独立して母校独立す」。見知らぬ先輩たちの支援で後輩たちの地力が養われ、これからも強く豊かに人財を輩出していく母校の姿、思い浮かびませんか?

ホールの仕上げに「自主独立」の書を掲げることにしました。緑友会事務局の片隅で、あることさえ忘れられていた作品です。力強い筆致、うねる文字。それはしっかりと生き、汗と涙で自主独立を勝ち取った大勢の卒業生の姿そのものに見えました。

会長だより ㉙ やりくり賛歌

(2024年8月2日)

やりくり賛歌

緑友会長 川本正人(普通科21期)

 

母校食堂のホール化工事は8月25日までの46日間。本日が折り返し点です。「着工したのだから、もう安心でしょう」、よくそう声をかけられますが、実際は今も計画を修正中。理由は老朽建物のほころびと資金不足。問題が起きると優先順位を組み替え、他の部分から予算を回しているのです。構想が浮上した1年半前からその繰り返し。けれど不思議なことに、その都度ヒーローが現れて前に進んでいます。

創立70周年記念事業実行委への寄付額は、後援会「みどり会」750万円、PTA 500万円、緑友会500万円(追加を予定)の1750万円。このうち記念公演費などを除いた1650万円が現在の改修予算です。皆様からのご支援金で、どこまでできて、何ができないでいるか。今回はその辺りを整理します。
経費削減2

改修費の変遷をざっくり見ると、

①最初の見積もり6000万円(いきなりトドメかい!)

②施工範囲を絞った半年前のコンペ(設計競技)では2000万円(心が折れそう!)

③金額勝負とした今春の入札で1617万円(やっと契約できた!)

④事前調査で判明した危険個所の改修など追加工事の見積もり430万円(何でそうなるの?)

⑤着工後に梁の損傷が見つかり、補強した場合を見積もり中(……絶句)

これらの陰で様々な計画修正があるわけです。①は通路など外周りの美化やイス、テーブルの新調込みでしたが、②のコンペではカット。緑友会役員らの呼び掛けに応じた業者2グループが食堂内部の改修を中心に魅力ある提案をしてくれました。しかし目安に示した1400万円を大幅に超過。おまけに既存の電源では空調動力を賄えないと指摘され、電力引き込みに200万円近くかかることになって、コンペは予算不足で不成立。

けれど立ち止まる猶予はありません。関電による引き込み工事には申請から2か月半。前年から深刻化している電線ケーブル不足にもハラハラ。夏休み中の施工には「業者即決」が絶対条件でした。

急きょの入札。ここで救世主となったのは、ボランテイアで全体監理を申し出てくれた一級建築士の木本圭二さん(普通科24期)。最適な設計や資材、手順、各部工事の最低必要金額などを、あっという間に一覧表にし、おかげで計4業者による入札が実現。厨房空調や、通路・藤棚・手洗い場の化粧直しまでもが予算内で施工できることになりました。

ところが難は続きます。直面しているのは④の追加工事費430万円。皆様のご支援が継続されると信じても、賄えるのは半分です。

基本工事や危険個所改修は外せません。大きく削れるのは「多目的ホール化」に向けた機能面。4か所の壁付け型プロジェクターは全て断念しました。2017年に緑友会などが全教室に寄贈し、現在取り外されている機器を再利用する予定でしたが、壁の補強や遮光カーテンに100万円以上。いつの日か据え置き型で実現できるよう、今夏は電源整備や一部天井の補強までとします。

舞台の台数も削りました。壁際に設けるカウンターの下に、1畳程度、高さ15㌢の可動舞台を10台収納できるのですが、これを6台にとどめ、35万円分を減らします。

一方、ホンマかいなの朗報もありました。機能面を補おうと音響機器の見積もりを手配中、またも助っ人が現れたのです。緑友会事務局にひょっこり来られた高山愛二さん(普通科25期)。何のお話かと思ったら、

「家に100㍗のスピーカーがあるねん。高さ90㌢くらいのデカいやつ。キャスター付きで一対。どこかで使ってもらえんやろか」‼

あなた、私の心が読めるん?

「せやせや、ミキサーもあったな。あれもどやろ」‼

やっぱり読めるんや‼

さて、前回取り上げた「梁」問題。ホームページにアップして5日後の先月24日、府教委の一人が再度現地に来られました。複数の緑友会スタッフが働きかけてくれたのです。私から「安全性について府教委の見解を文書でいただきたい。工事を監理する一級建築士と府教委との認識に差がありすぎ、安全か危険か、対策が必要か不要か判断できない」と申し上げたところ、その場で承諾。その後、「上席にも伝え対応を検討中」とのメールも届きました。

あすはパリ五輪も折り返し日です。開会式を締めくくったセリーヌ・ディオンの鬼気迫る「愛の賛歌」の録画を再生し、闘病する彼女や、仲間との絆で活躍する日本選手団のキーワード「諦めない」を心に染みこませて、後半に臨みます。

会長だより ㉘ 「安全第一」の覚悟

(2024年7月19日)

「安全第一」の覚悟

緑友会長 川本正人(普通科21期)

わかっちゃいるけど悩ましい。そんな言葉に「安全第一」があります。もとは「品質第二」「生産第三」との3点セット。「迷ったら安全最優先」を徹底させる標語です。

けれど実際は、「安全といっても、予算がなあ」と悩む場面がしばしば。創立70周年記念の母校食堂改修事業もそう。建物完成から61年余り。老朽化による危険個所が次々と見つかり、そのつど追加費用が必要になっているのです。

これまでは工事方法の見直し、ホール化設備の先送りにより、皆様からの浄財の範囲内で「安全第一」を貫く見通しを立ててきました。最大200万円の追加支出についても、緑友会役員9人から反対意見はなく、むしろ「当然」と積極的。

原則からブレない役員やスタッフを、改めて誇りに思った次第です。

さて、食堂改修着工から3日目の12日、また危険個所の知らせがありました。「天井を撤去したら、メインの梁(はり)の下部が削られていた。亀裂も入っている。大地震に耐えられない可能性が高い」

建物を支える骨組みが人の手で損傷⁉ もはや内装改修のレベルを超えており、学校から府教委に相談。返ってきたのは「補強したいならやっていただいてもいい」と、こちらに対応を委ねる答えでした。

今回の食堂改修事業について「なんで公費でやらないの?」というご質問が時折寄せられます。全く同感です。けれどそれでは何も進まないのが現状。ではどうするか。今回はそれを考えるご報告です。

食堂中央の梁(上)。下部がかき取られ、鉄筋が浮き出ている。(2024年7月)


問題のコンクリート梁は、食堂中央に渡されている南北12㍍の重要構造物。下部が全面的にかき取られ、鉄筋がろっ骨のように浮き出ています。建設当時に天井の高さを確保しようと数㌢削ったらしく、今なら建て直しを命じられてもおかしくないケース。さらに、東西の梁と交差する1か所に割れ幅1㍉以上の亀裂もありました。強度を低下させ、安全性を損なう「構造クラック」です。

知らせてくれたのは、工事をボランティアで監理している一級建築士の木本圭二さん(普通科24期)。すぐには問題ありませんが、大地震に見舞われたら梁が亀裂から曲がり、2階の床が垂れ落ちそうとのことでした。

すぐ学校に報告。17日には現場で対応を協議し、翌夕(昨日)には建物を管理する府教委の担当3人が来校。そこで示されたのが「鉄筋にさび止め」「クラックにモルタル注入」という補修方法。まるで骨折に赤チンみたい。しかも費用はこちら持ちという「提案」でした。

危険個所の指摘は、これまでもコンペや入札で訪れた業者の皆さんからありました。主なものは3つ。①熱源と異なる位置にある落ちかけの厨房排気フード(空調導入で閉め切ると一酸化炭素中毒の恐れ、地震で落下の恐れ) ②年代物の分電盤(感電・漏電の恐れ) ③階段下のコンクリート床の地下空洞化(陥没の恐れ)です。ゼロ災運動で「安全第一」と並んでよく言われる「ヒヤリ・ハット」(事故手前)の状態。見つかったのを幸い、①②は食堂との同時改修を決定、③は学校に公費で直してもらいました。

梁はどうするか。木本さんの試案は「亀裂の下に柱を立てて支える」。柱を外部で製作すれば取り付けは数日、費用も100万円くらい。この程度なら府教委の意志次第、と期待していました。

けれど府教委は「そこまでしなくても」と消極的。察するに、他にもグレーゾーンの建物がたくさんある中、ここだけにおカネは出せない、という立場なのかもしれません。

危険度について、木本さんの見解は真逆です。

「府教委提案のさび止め、モルタル注入は外壁向きの補修。梁の補強にはならない」

「最近の建物ならともかく、食堂は耐震対応の弱い60年以上前の建物。鉄筋の材質、太さ、本数が十分でなく、老朽化も進んでいる。見た目より弱い」

「鉄筋はコンクリートと一体で威力を増す。むき出しでは強度が落ちる」

「大地震の際、生徒が揺れの間に逃げ出せるとは限らない。2階床の落下が落盤のように急激でなくても、死傷者が出る可能性はある」……。

私たちはここまで、「安全第一」の覚悟で来ました。子どもたちの笑顔、青春の時間、まして命は「プライスレス」だからです。

これを原点に、大人の責任を果たす道を探ります。

会長だより ㉗ さらば昭和の大天井

(2024年7月10日=学校食堂改修の着工日に)

さらば昭和の大天井

緑友会長 川本正人(普通科21期)

建物には年代を感じさせる部分があります。母校の食堂では「天井」。シミや反りのあるプツプツ穴の吸音ボード、360度首を回し続ける扇風機、ジージー・チカチカの蛍光灯……。窓がサッシになり、壁に耐震補強が施されても、見上げれば一面の昭和レトロです。

10日、その天井の撤去が始まりました。食堂を多目的ホールに改修する創立70周年記念事業の着工です。構想浮上から1年8か月。「よくぞここまで」と皆様のご支援に感謝しながら、この間何度も仰ぎ見てきた天井に「お疲れ様」と告げました。

思い返せばこの天井。事業の可否を決する懸念材料とキーパーソンを、同時にもたらしました。経過報告を兼ねてご紹介します。

取り外される食堂扇風機。4台とも別の所で再利用予定。床の板は張り替えられるテーブルの天板。

ホール化の発端は、一昨年11月に開かれた学校と緑友会との周年行事検討会。学校側から「食堂に空調設備がほしい。多目的に使えるようにもできないか」という案が出ました。未だに空調がなく、220平方㍍もあるのにほとんど活用されていない施設。着眼点はすごくいい。けれど「どうやって進めるの?」「いくらかかる?」と疑問符だらけです。

そこで緑友会役員のツテで3つの業者グループを現地に招き、個別にヒアリング。2000万円あれば基本部分は改修可とわかり、昨年6月の緑友会報で支援を訴えるとともに、後援会「みどり会」とPTAにも協力を求めて3団体共同出資体制を構築。本格的な改修案を求めて設計競技(コンペ)も催すことにしました。

こうして「資金」「設計」の二大課題の進め方は見えました。ところがこのヒアリングで、とんでもない懸念も示されました。撤去する天井の「アスベスト」です。耐熱・耐久性に優れ、高度成長期以降、国内で大量使用されましたが、解体時などに吸い込んで生じる健康被害が問題となり、2006年に製造・使用が全面禁止。含有建材の撤去や処分には細心の注意が必要で、かなりの費用と時間を要します。

学校食堂の建設は1962年。業者グループらは「古い建物ですからね。調べれば、アスベストがまず出ます」と妙にきっぱり。この「調べれば」がくせ者です。「調べないのも、アリ?」、私の中のヨコシマ君がささやきます。「もし出たら、おカネ要るで。食堂閉店の夏休み中に終わらんで。そもそも府教委が工事を許さへん」。けれどホールは子どもたちの集う場所。しかもことほぐべき記念事業。数日考えても代案は浮かばず、ヨコシマ君を叱り飛ばして調査を決めました。

とはいえ正式な検査結果をどうやって得るのか、いくらかかるのか、これまた疑問符だらけです。そんな昨秋、「ボクがやります」と名乗り出た人がいました。一級建築士でデザイン設計室を営む普通科24期生の木本圭二さん。「工事全体を監理できる人もいた方がいいですよ。ボク、ボランティアでやります」とどこまでも明るく積極的。費用、品質、施工内容、どれも何が妥当かわからない私たちにとって、本当にカッコいい白馬の騎士でした。

木本さんは、ヒアリングに応じてくださった業者グループの一人です。この日も工事やコンペの進め方についてご意見をうかがおうと学校にお越し願っていました。そんな私たちがよほど右往左往して見えたのでしょう。「緑友会の皆さんは無償で一生懸命。自分は60歳を超えた今まで母校のことは何もやっていない。コンペに出るより、今は自分に出来ることで母校にお返しする時」と思われたそうです。それからはコンペ、入札、追加計画で大奮闘。「天がこの人を遣わして事業を導いている」、私にはそう思えてなりません。

さてアスベスト。昨年11月、木本さんと二人で天井材の一部を削り、検査機関に送りました。1週間後にメール添付で届いた報告書。A4判3枚の中ほどにあった結果は「不検出」でした。

あれだけ出そうな話やったのに、なんで? 木本さんが思ってもみない理由を答えてくれました。「古すぎたんでしょうね。古すぎて、まだアスベストが使われてなかったんです」

もはや歴史的建造物⁉ さすが緑友会館! さすが還暦超えの大天井!

涙がにじんだのは大笑いしたせい。隠れてそっとぬぐいました。

会長だより ㉖ 創立70周年ごあいさつ――人気の理由

(2024年6月1日=創立70周年の会報発行に寄せて)

人気の理由
――ぶっ飛び経験で、開け新未来――

緑友会長 川本正人(普通科21期)

今年度の公立高校一般入試(全日制)で、府内145校の半分近い70校が定員割れになったそうです。授業料無償化が段階的に始まり、公立離れが一気に進みました。府内東南部の旧第7学区は特に厳しく、定員を上回ったのは募集のあった14校のうち3校だけ。

そのひとつが私たちの東住吉高校です。

授業料に差がなければ、施設や難関大進学率の差で私立が有利といわれます。にもかかわらず母校の人気が不変だったのはなぜでしょう。私はそれを、「ぶっ飛んだ経験」ができる伝統と、それを共通体験としている卒業生や保護者、先生方の存在だと考えています。

体育祭や卒業公演などで、クラスや学年の枠を越えて協力したりぶつかったりする。何事かを成し遂げた結果、思ってもみなかった感動が生まれ、新しい景色が見える。東住吉高校にはそういう経験の場が、生徒全員に、いくつも用意されています。

発想がモノを言う時代です。スマホの発明のような斬新な未来を描く意志、AIの裏をかくような独創性が要ります。その礎を築くのは、夢中でのめり込むナマの経験。大学の予備校と化し、既存の知識だけで「わかったつもり」になったり、すでにある解答を速く出すことだけを競ったりする環境からは、規格外の“人財”は育ちにくいのではないでしょうか。

東住吉高校で得られるナマの経験は、卒業生たちの多くも共有しています。「あの行事で何をしたか」を披露しあうだけで、卒期を越えて話が進むのです。

また保護者の支援は、東住吉高校のルーツでもあります。先の敗戦から10年。厳しい時代の中で、「東住吉区(当時)に高校を」と地元の保護者たちが土地や資金を用意して誘致したのがわが母校です。緑友会館や図書館棟も保護者によって寄贈されました。

志は今も引き継がれています。コロナ禍で威力を発揮した電子黒板などのICT(情報通信技術)機器は、その数年前の2017年に卒業生と保護者らが協力して全教室に寄贈したものです。さらに今年度は、学校食堂を多目的ホールに改装する70周年記念事業を、卒業生、保護者、そして保護者のOB・OGが一体となって進めています。

先生方が伝統を大切にされていることは、先日の体育祭で「教員団」がマスコットやスタンドを立ち上げたことが物語っています。ノウハウを伝承し、教員の世代交代に備えたからです(会長だより㉕参照)。

かつて20年余りにわたって他校をうならせた霧ケ峰キャンプは修学旅行に変わり、長居公園を何周も回るマラソン大会もコロナ中断を機になくなりました。その一方、様々な国際交流やチャリティー100㎞リレーマラソンなど新たな伝統も育っています。コロナ禍が落ち着いた今、新装される多目的ホールは、子どもたちのリアルな出会い、語らい、表現の場となることでしょう。

私たちの母校は、昭和から平成、そして令和へと、激動の時代に2万8000人以上を送り出してきました。豊かな経験を胸と体に刻み込んだ人財ばかりです。経験が幸福度を高めることは、学術的な研究結果を見るまでもなく、多くの卒業生の実感でもあります。

これからも子どもたちがいろいろな経験を重ね、「ホンマ、楽しかった」と巣立っていく母校であるよう、100周年を難なく迎える不滅の母校であるよう、卒業生の皆様、お力添えをどうぞよろしくお願いいたします。