会長だより ⑱ 「がきデカ」文化祭

(2023年9月2日)

「がきデカ」文化祭

緑友会長 川本正人(21期)

 

あんな模擬店がよく許されたものです。1975年9月の東住吉高校文化祭。私たち1年4組が開いたのは「ゲイ喫茶」。呼び物は「ゲテモノショー」、目的は「変態を楽しんでもらうこと」でした。

「今さら書かんでもええやないか」「母校の品位を考えろ」と早くも聞こえる制止の叫びは、空耳ではないでしょう。確かにあの企画は、学習活動の成果発表とはほど遠いものでした。悪ふざけだとマユをひそめた大人もいたはず。ダメ出しの理由はいくらでも挙げられたと思います。

けれど私は、それを明るく真面目に平然とやった生徒たちと、何も言わずにやらせてくれた母校に、半端ではない「自主の精神」を感じるのです。

ゲイ喫茶で女装男子(私)と記念撮影をする1年生たち

入学半年近くのクラス会議。出し物はすんなり喫茶店に決まりました。お手軽で楽しそうだったからです。ところがここから弾けます。「普通の店では面白くない」「どうしたらみんなに来てもらえるか」と差別化に話が進んだのです。その時、陸上で筋トレばかりやっていた水泳部の男子が案を出しました。「『がきデカ』の変態、やらへんか」。

「がきデカ」は、前年から週刊少年チャンピオンに連載されていた人気ギャグ漫画。2頭身の自称少年警察官が変態行動で騒動を巻き起こす1話完結ものです。「死刑!」などの一発ギャグと下ネタでインパクトを与えるとともに、劇画調の表現、ボケとツッコミの導入といった手法で現代ギャグ漫画の基礎を作ったとされます。

とはいえ当時は評価が定まっていたわけでなく、むしろ有害コミック扱い。にもかかわらず「がきデカ」に熱中し、教室で読んではガハガハ笑い声を響かせていた水泳部員が、あろうことか文化祭の教室でその世界をリアルに表現しようと言い出したのです。作品を評価する彼の目が、世間より確かだったといえなくもありません。

ショーの具体化にも真剣でした。漫画では次のコマで突然ギャグが飛び出したり、主人公が象に変身したりします。その落差と場面転換の速さが生む笑いをどう再現するか。「パッと出て、ビシッと決めて、サッと消えるんや」「真剣にやらなあかん。ヘラヘラしてたらシラケてまう」。不真面目な世界を真面目に表現する打ち合わせが続きました。

「変態の面白さ、さっぱりわからん」と思っていた私も感化されたのでしょう。「ゲイの方は任せとけ。美人に化けたるで」とすっかり乗り気に。クラスの女子に「服貸して」と、ご両親が目をむきそうなことを真面目にお願いし、ビチビチのワンピースを調達したのでした。

当日の教室。前半分は机を並べた舞台。窓は赤色系のカーテンで覆われました。ゲイ喫茶と言っても女装男子が給仕するだけ。怪しげな雰囲気はなく、店内に満ちたのはギャグ漫画に通じる即興的な笑いでした。

そしてショー。海パン1枚の水泳部員が単身、「ウォ~ッ!」と奇声を上げて舞台を走り、ピタッと止まって筋肉ポーズ。次の瞬間、ワキ毛に見立てたモヤシをむしってほお張り、あっという間に走り去るーー。時間にして数秒だった気がします。満席の店内は一瞬あぜん、そして大爆笑。がきデカには全く笑えなかった私でしたが、リアルな熱演には腹筋崩壊。そして胸中で叫びました。「受けたぞぉ!」。

日常生活を共にする級友同士だから生み出せた非日常の世界。それは起業・興行体験でもあり、その日限りの異次元体験プログラムでもありました。

母校のスローガン「二兎を獲る」の二兎は、文武両道だけでなく、動と静、攻と守、奮起と抑制、自由と規律など、さまざまな二律で考えていいと思います。社会を維持する「静・守・抑制・規律」、時代を前に進める「動・攻・奮起・自由」。どちらも不可欠です。そして東住吉の強みは後者を生む素地。時にはリミッター(抑制装置)を外してぶっ飛び、思いもしなかった世界を体感させてくれる伝統にあるのではないでしょうか。

1週間後の9日(土)は母校文化祭の一般公開日。ぶっ飛んだ企画、あるかなあ?

 

※ 次の文化祭では、緑友会もテントを設営します。正門からのメイン通り、緑のノボリが目印です。(仮称)緑友ホールプロジェクトのご案内、母校絵はがきの販売のほか、談話スペースも設けます。気軽にお立ち寄りください。

会長だより ⑰ 40年目のメッセージ

(2023年8月19日)

40年目のメッセージ

緑友会長 川本正人(21期)

40年前の旧暦七夕、1983年8月15日に、彦星(アルタイル)に向けて、米国の電波望遠鏡からメッセージが送信されました。地球の数字や元素、太陽系、生物の進化、DNAの構造などを表した13枚の画像と子どもたちの音声です。地球外知的生命体の存在を仮定して週刊少年ジャンプ(集英社)が企画し、東大東京天文台(現国立天文台)教授らが実施。このような試みを日本人が行うのは初めて、世界でも2例目だったそうです。

そして今年の旧暦七夕、8月22日に、返信の受け取りが試みられます。協力するのは長野県にある宇宙航空研究開発機構(JAXA)の観測所。ふだんは小惑星探査機「はやぶさ2」などと通信しているパラボラアンテナを、1時間だけ彦星に向けるとか。彦星との距離は17光年。地球からのメッセージが2000年ごろに到達し、彦星人が内容を解析、返信内容を決めた後、電波を送り続けていれば、受診できる可能性はゼロではない……という、新聞で読んだお話です。

もし受信できたら、映画「コンタクト」(97年)のように科学、宗教、政治を巻き込んだ騒ぎになり、「地球人」の自覚が大勢に芽生えるかも。奇しくもアルタイルの星言葉は「空想的で現実的」とか。宝くじに似た期待を抱きます。

彦星に発信された「人間」と「女性の顔」の画像

 

発信された83年、国内では東京ディズニーランドの開園、家庭用ゲーム機「ファミリーコンピューター」の発売などがありました。貧しい農村に生まれながら経営者として成功する女性を描いて国際的ブームとなったNHK連続テレビ小説「おしん」もこの年の放映です。日本はその後、バブル崩壊や相次ぐ天災に見舞われるのですが、全体としては今も平和と繁栄の中にあると思います。けれど同時に、「40年分進歩したのかな?」というもどかしさも覚えるのです。

世界に目を転じると、83年にはソ連による大韓航空機撃墜事件や米軍のグレナダ侵攻、前年には「兵器の実験場」と言われたフォークランド紛争がイギリスとアルゼンチンの間で起きています。その後、ソ連解体やEU発足で冷戦に終止符が打たれるかと思ったら、「民族」や「国家」が争う時代に逆戻り。技術が発達した一方、温暖化なども進みました。地球人はどうも40年前と変わっていない。彦星人にはそう見えるかもしれません。

緑友会はどうでしょう。母校創立30周年の84年、会報4号(2㌻)が発行されました。前号から17年ぶりで、「同窓会活動を盛り上げていきたい」と、この年からの毎年発行を宣言しています。70周年を前にした私たちも思いは同じ。会報に加え、時代に合わせて同窓会システムやホームページといった電子技術の本格導入にも踏み切りました。

40年前に成人となった25期生は今年度、還暦同期会を開きます。ほかにもコロナ禍で控えられてきた同期会、同窓会、OB・OG会が企画され始めました。同窓会システムやホームページは、広報や所在不明者探し、出欠確認などに早速利用されています。

若いころの友人との再会で不思議に思うのは、会わなかった間の互いの人生がひとまずカットされ、過去と現在の時間軸がすんなり一本になることです。彦星に送信された画像のように素朴でシンプルな、隠しようのない「素」の自分で接するからかもしれません。先ほど触れた会報4号で、当時の会長が「同窓」という言葉の由来を原典の漢文を引いて解説し、「同じ学問をする者を同窓と言う。利害関係を越えた同志の結びつきである」と述べておられました(どこぞの会長とは格調が違いますわ)。なるほど、同じ学び舎で育んだ同窓の絆は、その後の個人に付いて回るようになった様々な要件とは無関係です。

だとすると、40年前と変わらずにいることが大切なこともある。その当たり前に思いが至り、気分が少し晴れました。

同窓のみなさんが心のパラボラアンテナを開き、時空を超えたメッセージを受信・発信できるよう、夏の星空に祈ります。

 

会長だより ⑯ ダイヤモンドの万華鏡

(2023年7月26日)

ダイヤモンドの万華鏡

緑友会長 川本正人(21期)

クールな若者が増え、「青春」という言葉が遠くなった……と寂しがっていたのは大間違いでした。この日曜日に招かれた芸能文化科第29回卒業発表会。マスクを外した素顔の3年生31人から噴き出したのは、まさに「青春」の熱風だったのです。

無観客だったコロナ禍を経て4年ぶりの通常開催。芸文棟の客席100余りは保護者らでいっぱいでした。舞台は正味3時間。「長いかな」と思っていたのに、幕が開くと全く目が離せません。「なんでやろ?」。理由がわからないまま、舞台がどんどん進みます。完成度の高さ。それもあるでしょう。古典芸能から演劇、幕間のドラマ映像やダンスまで、多彩な演目を一気に楽しめる異例の構成。これも理由でしょう。お笑いやダンスを披露していた生徒が、次には居住まいを正して和服で和楽器。この動と静の対照や可能性の豊かさに、うなったことも確かです。

けれど一番の理由は、そういう技術的なものとはちょっと違う……。モヤッとしていたら、舞台の生徒と目が合いました。これが実に楽しそう。演じているという気配もない、ひたむきで素直な喜びの表情です。そういえば、最初の演目「筝曲」を弾き終えて客席に向けた顔・顔・顔の晴れやかさ、続く日舞で和傘を手に「学園天国」をテンポよく踊った躍動感、幕間の体当たりコント、思えばどれも「今、最高に幸せです」という生徒たちのメッセージにあふれていました。これは、舞台という形で表現した青春時代の集大成。そう思うと、全員で一糸乱れぬ音曲を奏でるまでにかいた「汗」、できない悔しさで流した「涙」、励まし合い、ぶつかり合って育んだ「友情」まで見えるようでした。

終盤、そんな生徒たちの気持ちを、ストレートに表す演目がありました。3年生が一人ずつ手紙を読む「私たちの言葉」です。「家族へ」「10年後の自分へ」「芸文で学んだこと」の3つの題にほぼ10人ずつ、全員合わせて15分間。家族には「毎朝のお弁当」(これが意外と多かった)「話を聞いてくれたこと」「いつも味方でいてくれたこと」への感謝。10年後の自分には「今みたいに笑っていますか」「芸文の仲間と出会って今があることを大切に」「やりたいことをいっぱいやって」などの励まし。芸文で学んだことでは「感動は挑戦しないと生まれない。努力すれば感動も大きい」「認めてくれる仲間が自信をくれた」「可能性はいっぱい」「やりたいことに突き進む」といった力強い言葉。

そして多くの生徒が、読み終えたあと、客席と裏方の後輩たちに向けて同じ言葉を叫びました。「大好き!」と「ありがとう!」です。感極まってむせび泣く生徒も少なくなく、保護者でない私までウルッ。自分の気持ちを、こんなに真っすぐ、正面切って次々とぶつけてくる高校生たちって、います?

この学年は、コロナ禍で芸能文化の担い手たちの暮らしが不安定になったころに入学しました。将来に不安を覚えた生徒やご家族もおられたと思います。それだけに、「今、最高の景色が広がっています。制限のあった生活も全部、私たち31人でしか過ごせなかった、かけがえのない青春です」ときっぱり言いきった総合監督の女子生徒の、涙をこらえた終演口上が胸を打ちました。

「生徒はキラキラ輝くダイヤモンドのかけら。舞台はその生徒たちが集まった万華鏡」。開幕前に萩原美由紀校長がなさったあいさつです。たくさんの個性がきらめきながら、二度と生まれない模様を刻々と描き出す。一瞬の輝きに人々を引き込む。なるほど、ここは青春のカレイド・シアターやったんや。

一緒に見終えた緑友会の会報担当スタッフ(10期)も「ええ子たちでしたねえ」と感慨深げ。帰宅後すぐに送信してこられたのが上の写真です。熱風の一端をお感じください。

 

会長だより ⑮ 過渡期のチャンス

(2023年7月6日)

過渡期のチャンス

緑友会長 川本正人(21期)

 

会報41号をお届けして1か月。同封の振込用紙で寄付や応援会費(特別会費を改称、年2000円)をお寄せくださった方は779人、合計253万1860円(7月4日現在)に上っています。昨年度1年分に比べ、人数で3.2倍、金額で2.1倍です。創立70周年記念「学校食堂改修(仮称)緑友ホールプロジェクト」の目標2000万円まで、まだとぉ~~い道のりですが、手ごたえはいただきました。本当にありがとうございます。引き続き、周囲の方々へのご支援のクチコミ(これが効くんです!)、よろしくお願いいたします。

ところでこの「会報」。長年、会員と会を結ぶほとんど唯一のツールでした。1年前に会長になって仰天したのが、その発送費の大きさです。昨年度の場合、会の総支出261万円の半分、132万円が発送費。少子化で新卒会員が減少し続け、来春卒業予定の280人全員が入会費(終身会費を改称)を納めてくださったとしても140万円ですから、これに匹敵する額が1回の発送で消えることになります。物流危機で、今後は配達料金の値上げも避けられないでしょう。

というわけで、緑友会も昨年度から、ホームページなど電子媒体の活用に動いています。世代交代するくらい先かもしれませんが、紙の会報、紙の振込用紙の何割かでも電子会報、電子決済に置き換えられないか、という試みです。けれど無理はしません。卒業生の中には、紙で読み、足を運んで現金で振り込んでくださる方がたくさんおられるからです。当面は、「紙」と「電子」を併用します。

総会に先立つジャズコンサート(25期生の西川サトシさんらが出演)。続く会議では例年になく発言が相次ぎました。

 

併用の間、費用は余分にかかります。初年度は特にそうです。先日の総会でも、今年度の「会報作成費116万2000円」の中身についてご質問がありました。編集や版下制作は有志がボランティアでこなしており、あとは印刷費(今年度は33万4400円)で済むはずですから、当然の疑問です。(質問された方は、当日お手渡しした資料を短時間でよく読み込んでくださいました。)

アップの要因は主に3つ。①同窓会システム導入に伴いIDとパスワードをお一人分ずつ印刷したこと ②電子決済の手始めに無記入で使えるコンビニ振込用紙をお一人分ずつ用意したこと ③必ず開封していただけるよう中身が目立つポリ封筒を用いたこと――です。発送部数は1万7141。これに①~➂それぞれに1部10円前後(税込み)がかかり、まとめて封入する作業にも10円(同)を要しました。

これが、電子化への情報を「紙」で伝えた初年度のコストです。

でもおかげさまで、冒頭でご報告したご支援のうち、コンビニ振込が人数で61%、金額で37%を占めました。新たな試みがご支援のすそ野を広げていることは間違いなさそうです。また、同窓会システムにアクセスして「所在不明者」の情報を続々とお寄せいただいたり、「近況報告」に早速、数十件の投稿をいただいたりもしています。

過渡期は、安定期に向かう発展の時期です。そこでは好機も生まれます。電子化に加え、これと連動させた「緑友ホールプロジェクト」もそうです。手探りながら、実現を信じ、構想を膨らませるアツい夏。母校の生徒たちも期待しています。旬の夢をどうぞご一緒に!

※ 会報に同封したコンビニ振込用紙(額面2000円)は8月末まで無記入、手数料なしで使えます。その他のご支援もまだまだ受付中です。詳しくはホームページトップの「食堂を緑友ホールへ!」 をクリック・タップしてください。

会長だより ⑭ 緑友会のSDGs

(2023年6月21日)

緑友会のSDGs

緑友会長 川本正人(21期)

初めて〝会長職〟らしい文章を書きます。25日に開く緑友会総会のご案内です。何といっても会の最高議決機関。私にとっては初めて直接ご意見をいただく場。そこで、あらかじめ主な議題をご説明し、当日は「もうな~んも言わんでええよ」というお声がけをいただこうという小心者の魂胆です。持続可能な会と母校を目指す諸施策。お運びになれない方も、ぜひお目通しください。

ご承認いただきたい大きな事業は4つ。「同窓会システムの導入」「ホームページの改修・活用」「創立70周年事業」「会則改正」です。なんでいっぺんにやるの、と思われそうですが、これらはすべて連動しています。システムで名簿管理や入金決済を電子化する→ホームページをその入り口にし、同時にコミュニケーションを活発にする→新たな名簿、決済、広報手段の活用で70周年事業の実現に弾みをつける→それらを円滑に進められるよう会則を改めるーーという関係です。いずれも昨年度と今年度の2か年計画となります。

1.同窓会システム

卒業生ら会員数2万8000人。これに対し6月1日発行の会報41号を発送できたのは1万7141部でした。所在不明は4割に上ります。さらに、宛先不明で戻ってきた会報はすでに約300部。名簿の劣化がどんどん進んでいるのです。営々と紡ぎ続けた名簿は会の最も重要な財産。劣化を食い止め、逆に復元していくには、みなさまご自身による「データ更新」と「所在不明者の情報提供」を可能にするしかありません。

名簿をエクセルデータにしてUSBメモリーに収め、人の手で1件ずつ処理する今の方法も限界です。紛失や誤入力の恐れもつきまといます。メールアドレスも集められません。手作業で行っている支援金の決済も、キャッシュレス時代に備えて電子化したいところ(今年度採用した無記入で納付できる「コンビニ決済」はその第一弾です)。コロナ禍で総会を中止した経験から、非常時にWEB総会を開ける仕組みも必要となっています。

同窓会システムはこれらを解決する手段です。東京、大阪、兵庫の5社から対面やオンラインで聴取を行い、機能が最も充実し、同窓会に特化して使いやすく、一番安価だった製品を採用しました。

2.ホームページ

会のホームページは近年、曲折があって自分たちで編集できませんでした。また、ネットで検索して入ると「接続は安全ではありません」という警告が出、実際、膨大な回数の攻撃に遭っていました。そこで会が契約したサーバーに引っ越し、安全を確保したうえで、一部可能になった自力改修と自主編集を開始。今年になって、同窓会システムの入り口となる「マイページ」の開設、会員からの情報発信、「会長だより」の掲載、SNSとの連携までこぎつけました。しかし自力改修の限界で、半年たってなお見にくく使いにくい状態です。今後できるだけ改修しつつ、並行して抜本的な対策も進めます。

3.創立70周年事業

来年の70周年に合わせた食堂改修「(仮称)緑友ホールプロジェクト」がメインです。空調さえなく、昼食時以外は施錠されている食堂をにぎわい空間によみがえらせます。ランチタイムや放課後の談話や公演、体育祭や文化祭に合わせたホームカミングデイなど多目的に活用できないか、芸文卒業公演をパブリックビューイングで楽しむのはどうだろう、と夢が膨らむお話です。少子化で生徒の確保が難しくなる中、魅力ある環境づくりは母校の末永い発展につながります。今春、3グループ(6社)を個別に食堂に招き、改修可能な要素や概算事業費などを聴取しました。どこまでやれるかは集まったご支援金次第。予算枠が見えてくる秋にコンペ(設計競技)の要綱を固めたいと考えています。

4.会則改正

例えば上の3つの事業。現会則では、名簿をUSBメモリーなど「電磁的」な方法で「事務局」が保管するとなっています。危ないです。広報手段に挙がっているのは「会誌の発行」だけ。70周年事業に取り組もうにも「母校支援」は会の事業に明記されていません。全体に社会や会の実態に合わない部分が多いのです。そこで昨年の総会後、その場で「会則改正委員会」を発足させ、4月の役員会で案を決定、ただちにホームページに掲載した次第です。

 

当日は、まず午後1時40分からベーシスト西川サトシさん(25期、写真)の公演があります。ベースといえばリズムを担い、バンドの推進力となって、楽曲の厚みや場の高揚感を生みだす重要パート。その余韻をベースに総会を迎えます。みなさまとのセッションが、会と母校の未来に強く明るく響きわたりますように。

会長だより ⑬ 続・支援の礎 

(2023年6月7日=会報最新号が届いて)

続・支援の礎

緑友会長 川本正人(21期)

 

前回は、様々な経験によって育まれた母校への愛着心と、卒業生2万8000人の心に息づく思い出こそが私たちの力だ、という「ハート」のお話をしました。今回は「ハード」の面から母校の成り立ちを振り返ります。

今から70年余り前、公立高校のなかった東住吉区(現在の平野区を含む)で誘致の動きが出始めました。中心となったのは区内の小中16校の保護者たち。取り組んだのは、学校用地の一部を自分たちで買収することでした。「府を動かすにはその方が早い」と考えたからです。田んぼの真ん中、約300坪(990平方㍍)といいますから、現在の敷地の40分の1程度。集めたお金は今の物価で約800万円相当(消費者物価指数をもとに計算)。もちろん広さは足りず、保護者たちは、その後も約1500万円相当の借金までして用地確保などに努めたそうです。

3年後、願いはかないました。大阪府立東住吉高校の開校です。終戦から10年の1955年(昭和30年)。焦土からの復興途上にあって、未来を見据え、教育に希望を託した保護者たち。私たちの母校は、そうした地元の人々のおかげで生まれたのでした。

さらに1962年(昭和37年)、府立高校随一の規模と設備を誇った学校食堂「緑友会館」がPTAから寄贈されました。3階建てに増築される前の1階部分です。工事費1165万円。開業時はうどん1杯20円で、現在は300円ですから、工事費を〝うどん換算〟すると約1億7500万円。消費者物価指数からだと約5800万円。えらく開きがありますが、大きな額だったことは間違いありません。

続いて1971年(昭和46年)、正門わきの西館(図書室、視聴覚教室)が完成。このうち図書室のある2階部分はPTAの寄贈です。工事費1160万円。今の物価で約3500万円になります。建物を相次いで2つも贈るなんて、ホントにすごい! 資金はどうやって集めたんやろ? 数年がかりで会費に上乗せしたり、PTAの所有地(そんなのがあったんや)を売ったりしたようですが、そのノウハウ、現在進めている食堂改修「(仮称)緑友ホールプロジェクト」にも活かしたいものです。

それから約半世紀。母校支援は続きます。2017年(平成29年)、電子黒板などの情報通信機器を、緑友会やPTAなど4団体が全教室に寄贈しました。最先端のデジタル技術を活かした「ICT教育」の始まりです。1000万円余りかかりましたが、これが授業の工夫につながり、のちのコロナ禍でも全授業ライブ配信などの形で威力を発揮しました。

「成功の反対は失敗ではなく、挑戦しないことである」。私の好きな言葉です。借金までして誘致に奔走した保護者たち。伝統をゼロから築き上げ、伝え続けた生徒たち。支援を惜しまなかった大勢の人々と、導いた先生方。思えば私たちの母校は、その時その場所で精いっぱいに取り組んだ群像の上にあります。

創立当時の航空写真。整地された学校用地に白線で校章が描かれ、1期生150人による「H」の人文字が浮き上がっています。周りは田畑。校舎はまだありません。当時は摂陽中学校内のバラックが学び舎でした。

私たちの母校は、この何もないところから始まったのです。

写真を収めた10周年記念誌の中で、1期生の一人が訴えています。「卒業しても学校を愛せる人間を育ててほしい」。創立70周年を前に、答えははっきり出ています。母校に心を寄せる卒業生は、絶えたことも、絶えることもありません。

支援された人々が次の人々を支援する。そうやって群像を連ね、母校の歴史を紡いでいく。創立の胎動のころから組み込まれた、それが私たちの遺伝子なのですから。

 

(本稿は、創立10周年と25周年の各記念誌、学校事務室保管資料などを参考にしました。)

会長だより ⑫ 支援の礎

(2023年5月21日=体育祭を終えて)

支援の礎

緑友会長 川本正人(21期)

 

コロナ禍の3年間で2度の中止に見舞われ、復活した昨年度も入場が大幅に制限された母校の体育祭が、21日、4年ぶりに平時の状態で開催されました。生徒数の減少で、団は1つ減って3つ(現在1学年7~8クラス)。6団時代の半分になりましたが、それでもマスコットが立ち、応援・アトラクション、騎馬戦、リレーなどの恒例種目がフルバージョンで繰り広げられて、伝統はしっかり継承。最高気温28度。雨で1日遅れたのが幸いと言えるほどの好天のもと、生徒も観客も、マスクなしの笑顔がひときわ輝いて見えました。

「高校時代の思い出」を問われて、この体育祭を挙げる人は多いと思います。ある期間、学年を超えて大勢の生徒が集まり、一つの作品や空間を創造する。その経験は、今考えてもかなり刺激的です。青春時代に味わったその新鮮さ、高揚感、達成感、あるいは独特な雰囲気への反発心などが、「今」の自分のどこかを形成しているという感覚、どなたにも多少はおありじゃないでしょうか。

東住吉高校の場合、こうした経験の場が、体育祭や卒業公演などの「行事」、盛んな「クラブ活動」、それらとの両立を目指す「学業」と、多面的にあります。ある教育研究機関の調査によると、母校への愛着度に影響を与えるのは、在校時の「積極的な取り組み」と「密な人間関係」だそうです。熱中する機会がいろいろあり、その分、友人や先輩・後輩、教師とのつながりが生まれやすい東住吉は、母校への愛着度を高める条件がそろっている、と言えそうです。

もう一つ、「ピーク・エンドの法則」にも触れておきます。全体的な印象は、最も感情が動いたとき(ピーク)と、一連の出来事が終わったとき(エンド)の記憶〝だけ〟で決まる、というものです。ノーベル賞を受けた心理・行動経済学者によって提唱されました。体育祭など最も印象深い出来事が「ピーク」。それら行事の打ち上げや、志望大学合格、母校からの巣立ちなどの思い出が「エンド」。この「ピーク」と「エンド」という2点の記憶が、高校生活全体の印象に大きな影響を与える、ということになります。

来年の創立70周年記念に計画している食堂改修「(仮称)緑友ホールプロジェクト」。間もなくお届けする会報に、みなさまのご協力を仰ぐ記事を載せています。100年を超える伝統校で耳にするような大口のご支援も、大勢でコツコツ寄せていただく小口のご支援も、どちらも誇れる浄財です。大事なのは、その礎となる母校への愛着心。積極的な「取り組み」と深い「人間関係」、さまざまな「ピーク」と「エンド」を経験した私たちは、母校への愛着で決してひけはとらない。2万8000人の卒業生の心に息づく思い出が、私たちの力だ。そう思うのです。

「母校応援の一つのカタチ」。緑友会活動を手伝ってくださる10期生が、体育祭直前にパパッと制作したプロジェクトパネルのフレーズです。グラウンドからわき上がる歓声を聞きながら、パネルの前でお願いチラシを配っていた私たちに、何人かが声をかけてくださいました。「私の卒業までに間に合うん?」と在校生。「もっと早くしてくれればよかったのにぃ」と卒業生。「頑張って下さいね」と年配の女性。

声に押され、「こういう日は、ホールを開放して『ホームカミングデイ』やな」などと、いずれ目にする「カタチ」に思いを馳せていたら、顔も腕も真赤に日焼け。「今の食堂、空調設備もないんやもんなあ。これから暑うなるのに」

卒業から45年たっての体育祭。今度は大人の心が揺さぶられました。

会長だより ⑪ 「目いっぱい」の手づくり発信

(2023年5月8日=ゴールデンウィークが明けて)

「目いっぱい」の手づくり発信

緑友会長 川本正人(21期)

「母校」って不思議です。同じ出身校というだけで、見ず知らずの人にも親近感がわきます。在校生や卒業生の活躍を聞くだけで、こちらまでドヤ顔になります。ふだんは意識しないけれど、母校が今もあり、そこが輝いていると気づいた時は、ちょっといい気分。緑友会が母校支援に積極的なのも、それが使命であるからだけでなく、自分たちの誇りや喜びになってかえってくるからなのだ、と思うようになりました。

こうした活動の基盤となるのは、卒業生2万8000人と元職員の方々などで組織する当会の、会と会員、あるいは会員同士のつながりです。つながりにはコミュニケーションが必要となります。主な手段は、年1回の会報と日常的につながれるホームページ、LINEなどのSNS。緑友会ではこれらを専門業者に任せず、会員がボランティアで制作しています。

このゴールデンウィークは、これらの制作の佳境でした。

会報は毎年6月初めに発行。半年前までに特集やページ建て、原稿の執筆者を決め、2月末が一応の締め切り。3月に磨きをかけ、4月に版下制作、5月前半に印刷に回します。現在の編集委員は1~42期の10人です。

来月発行の41号は、「(仮称)緑友ホールプロジェクトご支援願い」「同窓会システム導入」「ホームページ改修」など盛りだくさんなので、通常の12㌻を16㌻に増やした特別編成。しかも「緑友ホール」が4月の役員会で正式に動き始めたり、ホームページが刻々と修正されたりして差し替えが相次ぎました。伊原徹委員長(17期)はもちろん、1ページに半日かかることもあるという版下制作を担当して下さったベテランの10期生と新メンバーの42期生は、相当の時間と労力をつぎ込まれたに違いありません。(この稿に添えた会報のカットも、10期生が実に手際よく作ってくださいました。)

4月30日の日曜日、全ページのゲラを委員6人で2時間余りかけて回し読みしました。終盤の校正作業です。本来なら表記や用語の統一、似た記事の統合なども必要でしょうが、そこは執筆者の意向を大事にし、間違いや問題表現などに視点を置いてチェック。翌日には先生方の記事を学校側に確認していただき、ほぼ最終の版ができたのは5月4日、母校カラーの「みどりの日」でした。

ホームページは、今年になって〝再起動〟。以前のは曲折あって自分たちで編集できず、「接続は安全ではありません」という警告まで出る状態でした。そこで別のサーバーを引っ越し、自力で徐々に改修。ご覧になるたびにトップ画面が変わっていたり、バナーがやたらと増えたりしていたのは、ホームページを稼働させたまま試行錯誤を重ねていたせいです。

にもかかわらず、6日まで30日間のアクセス数は「764人が、30日間に平均2.3回開き、計9.3本の記事を見た」という成績。3か月余り前まではほとんどゼロでしたから、おかげさまで少しずつ知られ始めているようです。

使いにくい、見にくい、デザインが素朴すぎるなどの指摘は内部からもあります。でも、この画面は近々いったん固定します。会報に掲載するトップ画面と同じに保ち、読者が戸惑わないようにするためです。「こどもの日」に担当4人で今後の体制と進め方を話し合い、本格改修は固定の解除後としました。みなさまに何度も訪ねていただけるホームページに必ずします。当面のご不便、なにとぞご容赦ください。

さて私は、会の活動を支えて下さる方々に、無理なく、長くご協力いただきたいと思っています。「やれることを、やれるときに、やれるだけ」の姿勢です。けれど実際は、みなさん、この3つに次の一言を付けて行動されているように思えます。

「やれることを『目いっぱい』、やれるときに『目いっぱい』、やれるだけ『目いっぱい』」

ゴールデンウィーク中に私が受信・送信した緑友会関係のメールは100通超。出向いた打ち合わせは4件。「ボランティア精神」×「母校愛」が放つ熱波のような輝きに、めまいがしそうな〝黄金週間〟でした。

会長だより ⑩ 「緑友会」、その名のルーツは学校食堂

(2023年4月24日)

「緑友会」、その名のルーツは学校食堂

緑友会長 川本正人(21期)

「緑友会館」という名の学校食堂が開業したのは1963年(昭和38年)1月です。創立から約8年。待ちわびたかいあって、その規模や設備は「府内公立高校随一」とされ、他府県からの見学者まで驚嘆させた、と記録にあります。建物は当初1階食堂だけでしたが、間もなく2階、3階の増築に着手。同窓会館や部活の合宿所に使う構想もあり、ついに会館名が同窓会名になりました。今回はそんな「ホンマかいな」のお話です。

にぎわう学校食堂(1964年発行の創立10周年誌から)

緑友会の名を誰がいつ付けたのかわからない。1期生を含む周囲のスタッフも知らない。スクールカラーの緑にちなんだとは想像できるけれど。会長のくせに情けない。う~っ……。

そのモヤッとが少しスッキリし始めたのは、学校食堂大改修「(仮称)緑友ホールプロジェクト」を構想し始めた最近のことです。食堂入り口外の柱に埋め込まれた銘板に、「緑友会館」「寄贈 東住吉高等学校PTA」とあったのが糸口でした。「ン?『緑友』会館やのに、同窓会やなくてPTA寄贈?」

学校事務室で借りた古いつづりをめくると、確かにPTA寄贈。しかし、「緑友会館落成」の式典招待者一覧に「緑友会」という団体は見当たりません。代わりに「同窓会役員」が6人並んでいました。つまり完成時点では、「緑友」は会館名であって、同窓会名ではなかったのです。

続いて目に留まったのは、創立25周年記念誌(1979年)に収録された座談会。元国語の先生竹内清さんが「建物の名称は公募した。『オアシス』『若草会館』といった案があり、最終的にスクールカラーにちなんで緑友会館になった」と証言なさっていました。

「会館名→同窓会名」の決定打は、会報第3号(1967年)の中にありました。着工直前に赴任し、すべてを見てきた第2代校長葭原康夫さんの一文に「(食堂を)緑友会館と命名し、同窓会も緑友会と称せられるに至った」と記されていたのです。

では、同窓会はいつ「緑友会」になったのか。会報を並べると、落成式4か月後の1963年5月に発行された第1号の題字は「同窓会会誌」。その1年後の第2号は「緑友会会誌」。この間に何があったのでしょう。

ここからは、「NHKたぶんこうだったんじゃないか劇場」のノリで行きます。

「食堂、いつ見ても立派やなあ」「この春入ってきた9期生は550人もおるんや。食堂かてデカないと」「1期生は150人やったのになあ」「まだまだ立派になるで。2年経ったら3階建てや。同窓会も使えるらしい」「緑友会館にある同窓会かあ。ほんなら会の名前も『緑友会』でどやろ」「ええやん、ええやん」「そうしよ、そうしよ」……。

今では完成時の興奮が伝わりにくくなった学校食堂。60年を経た今、ここをもう一度にぎわいの空間にしたい。見学者まで訪れる施設にしたい。その思いを一層強くした数日でした。

会長だより ⑨ 創立70周年 〝緑友ホール〟 構想

(2023年4月7日=入学式を終えて)

創立70周年 〝緑友ホール〟 構想

緑友会長 川本正人(21期)

1か月前の卒業式は、ほとんどの生徒がマスク着用。2回の体育祭中止をはじめ、コロナ禍で行事も授業も大変な制約を受けた後輩たちの、それが当たり前となった姿でした。

ひるがえって本日の第69回入学式。着用の指導はなく、体育館に整列した8クラス320人の3分の1は、マスクなしでした。新入生たちの高校生活は、日常の「素顔」に一歩近づいて始まったのです。その笑顔でたくさんの友だちと語り合ってほしい。何があっても学校だけは歓声が絶えない場所であってほしい。そう祈らずにはいられませんでした。

こうした生徒たちが集う「にぎわい空間」づくりを、緑友会が進めることになりました。来年の創立70周年を記念した学校食堂大改修。名付けて「(仮称)緑友ホールプロジェクト」です。

食堂を「食事&多目的スペース」に改修した場合のイメージ

教室棟と道路を隔てた緑友会館は1962年度にPTAが寄贈。1階にある食堂はいまだに空調設備がなく、蛍光灯は古くて薄暗く、昼食時以外は施錠され……と、十分活用できる状態ではありません。200平方㍍以上ある広々空間で耐震補強まで施されているのに、これではもったいない。少子化で高校の統廃合が続く中、母校の末永い発展のためにも環境面の魅力アップが必要です。

そこでここを、食事にとどまらず、談話や自習、寄席やライブ演奏、さらには学校行事や20歳の集い、緑友会総会といったイベントにも活用できる多目的ホールにできないか、という構想が生まれました。昨年11月、学校側との周年行事検討委員会で話題になり、緑友会が1月と4月の役員会で話し合って、本格的に取り組むことにした次第です。順調に行けば来年夏休みに工事を行うことになります。

どこまでやれるかは、みなさまのご支援次第。6月発行の会報に寄付や会費(年間2,000円、任意)の振込用紙を同封するほか、郵便書留や金融機関からの送金も随時受け付けます。発注先はコンペ(設計競技)で選ぶ予定です。

いずれも会報でご案内。ホームページなどでも随時公開していきます。同期のみなさまをはじめ会員の方々への周知を、なにとぞよろしくお願いします。